蘇生の在り方、

あの大惨事から今日で20年。月日が経つのは果たして早いのか遅いのか。当事者その他関係者でしか介入できぬ「心根」だろう。でも色んな方々の蘇生ドラマが「生き抜く」ということを教えていただく機会となり、「人が何のために生きるのか」心したい日となる。

当時、青っち等は地方在住で、出張中の父の帰りを、母と妹等で普段と変わりなく時間を過ごしていた。

テレビのテロップが流れていても、特段気にもせず見つめていた数分があった。

母の何気ない一言は、子供だった青っち等にもしっかりとインプットされ、次なる展開が待ち受けていた。

普段、父の出張ごとや何やら、仕事上のことは一切口にしない母なのだが、この日ばかりはどうだったんだろう?

「今日ね、おとうさん、東京から飛行機で帰って来るんだって!」

同時にテレビに何度も流れてるテロップがようやく母の目にとまる。

あの一瞬は、今でも鮮明に覚えている。あとあと聞く話となるのだが、父は何かの手違えで、別の便での搭乗となり、自宅が悲愴感に漂ってることなど知りもせず。

日航123便(JA8119)には、父の同僚3名が搭乗し、お亡くなりになった事実が残る。

当時の光景は、阪神淡路大震災時においての早朝NHKテレビ以上、何か子供心に「ズドーン!」とした塊が今も青っちの中に残っている。

ヘリコプターでの救助シーンは、凄まじいという表現をおけば、今回テーマとした「ヒトの蘇生」の入り口となるだろう。

事故時の生存者(年齢は事故当時)は、日航同便客室乗務員の落合由美さん(26才)、吉崎博子さん(34才)と美紀子さん(8才)の母娘、川上慶子さん(12才)の4人。

何れも、客室後方に座っていた女性だったことは歴史的な事実。かのヘリコプター救助となった、同乗の両親と妹が亡くなった慶子さんは、母親と同じ看護師の道に。

3年前に結婚。昨年夏に男の子が生まれ、現在は子育てに専念しているという情報が入っている。

この事実を持ってしても、「蘇生のドラマ」が、確かに歩み始めているようだ。素晴らしいよね!

ともあれ、長い人生「旅」。時には、病に倒れたり、事件事故などのアクシデントに遭遇することもあることと。また誰人であれ、「死」は避けえない。

「生老病死」は、人の常であり、ここでも大なり小なりと、「生死」の苦悩があるのは、ひょっとするとある意味で当然のことなのかも知れない。

大切なのは、それら多種多様色んなケース等に、「直面」したとき、個々人や各企業が「どう乗り越えていくか(乗り越えられる己心を持ち合わせているか)」ではないかと。

己心となるものをあれば、必ず「自身」をもっとも良い方向へと向けて行くことが出来るのだから。ネ!(^^)v

また、この「蘇生ドラマ」の導火線的存在が下記のように明らかになったことを挙げておきたい。

「日航機墜落事故」川上慶子さん治療手記 担当医残す

85年8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落事故の生存者の1人、川上慶子さんが入院した国立高崎病院(当時)=群馬県高崎市=の副院長だった故浦野悦郎さん(事故当時58歳)が、慶子さんが転院するまでの2週間を記録した手記を残していた。入院時の様子などが克明に記され、事故から20年たつ今年、初めて明らかになった。

浦野さんは、慶子さんの医師団の一人として治療に当たった。手記は今年7月、浦野さんの遺品を整理していた妻千代子さん(66歳)が書斎の本棚から見つけた。市販のリポート用紙に約80ページにわたってつづられていた。

「患者(慶子さん)が搬入されたのは8月13日午後3時45分頃(ごろ)であった。(中略)14日。お水が飲みたい又(また)うわ言のように痛いと言う。(中略)事故により目の前で父、母、妹を失ったショックからかほとんど自語を発しない。(中略)事故のこと、家族の死については(慶子さんに)話さない方がよい」

医師たちは慶子さんの心のケアに腐心する。ようやく口を開き、家族の生死を尋ねる慶子さんに、医師たちは事実を伝えることを決めた。

「(8月15日)午前10時半頃から家人(親族)より両親と妹の死を告げさす。(中略)『お父ちゃん、お母ちゃん、咲子(妹)は駄目だったんよ』。彼女はポロポロと涙をこぼしていたが声を上げて嗚咽(おえつ)する様なことはなかった」

転院が決まった日、慶子さんは「島根に帰りたくない。家には思い出すものがいっぱいありすぎるから」とこぼし、浦野さんは「返す言葉もなかった」と記している。

同27日、慶子さんは島根県内の病院に転院。3カ月後、入院中の慶子さんから手紙が届いた。後遺症が残る右手で書かれた字は震え、「早く学校に行って友達にあいたいです」と記されていた。

以後、慶子さんとの交流は途絶えた。浦野さんは94年6月に白血病で死去。亡くなる2カ月前、慶子さんが看護師になったことを週刊誌で知った。浦野さんは「良かった」と喜び、週刊誌をしばらく枕元に置いていたという。

千代子さんは「退院後もずっと気にしていた。医者人生で最も忘れられない患者だったんでしょう」と振り返った。

・事故は85年8月12日夕、羽田から大阪へ向かっていた日航123便ボーイング747ジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。乗客・乗員524人のうち520人が死亡した。

・4人の生存者の一人となった川上慶子さんは事故当時12歳。島根県大社町(現出雲市)から北海道への家族旅行の帰途、事故に遭い、会社員の父と母、妹の3人を失った。慶子さんは看護師だった母和子さん(当時39歳)と同じ医療の道を選び、94年春に看護師として兵庫県内の病院に就職した。「毎日新聞 8月10日付より抜粋」

【日航ジャンボ機墜落事故-関連サイト-】

日航機墜落事故 東京-大阪123便 新聞見出しに見る20年間の記録
日航機墜落までの航跡
日航123便(JA8119)御巣鷹山墜落事故の真実

【日航ジャンボ機墜落事故-関連番組-】

・TBS18:25~
ボイスレコーダー~残された声の記録~ジャンボ機墜落20年目の真実
・NHK総合19:00~
日航機あの墜落事故から20年・追悼慰霊式
・NHKスペシャル21:00~
「あの日を忘れないで・日航機墜落事故遺族の20年」
・フジテレビ21:00~
「8・12墜落~20年目の誓い~天国にいるわが子へ」

等々が放映予定。それぞれの視点で描かれるのだろうが、青っちは子供等と観ながら話をしていきたい。

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蘇生の在り方、” に対して1件のコメントがあります。

  1. いろは別館 より:

    雨やんで俄か降り来る

    安全を誓ひ居る日に出火せし空路やはてはいかになるべき
     日航の今年に入りてのかさねがさねの「事故」不始末はさてもいかなることか。お祓ひをかけずにすまぬところ。御巣鷹山墜落事故の当日である。この事故に霊感得て自分は謡曲作品をものしたことがある。今国会図書館と在所の図書館に寄贈し置いた。殆ど読むものもあるまいが。あの事故の残した六通の遺書と四人の生存者から、アマテラス・スサノヲの「うけひ」の果てに生みたまへる五柱の男神と三柱の女神を類推し、これ歌の祖たるスサノヲが和歌撰集の沙汰止みになれるをいきどほれ…

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