ある手紙から、

知性第一の試験が本日行われた。受験者はもとより、勉強方法やこの時期にしか味わえない「ココロの琴線美」の体験。働き学ぶ激励行は、尊い方々の青雲な志を満天下に轟き渡りえた日でもあったに違いない。大変ご苦労様でした。<(_ _)>

先般、近しい後輩より近況報告も兼ね丁重なお手紙をいただいていた。通常、手紙など(メールを含め)は、一通り目を通しては、少し時間をおき、再度読むことがお決まりのパターンな青っち。今回も例外はなかった。(BLOGへの掲載許可を得、本人の希望箇所をも考慮し少し紹介してみたい)

哲人は、「因果の理法」を分かりやすく繙かれていますよね。…

…正・邪となる哲学を比較されて「その名(儒教の四聖や、バラモン教の三仙)は、『賢人』であるとは言え、実際には、「生命の因果」の道理を弁えないことは、まるで赤ん坊のような幼稚さである」と至言集を通し、厳しく指摘されていることは周知の通りです。

四聖・三仙と言えば、外道の最高峰と言っても良く、あらゆる人々から尊敬されている、諸学問の「祖」とも言うべき賢者。

四聖とは、師弟の道を明らかにした四人のことで、尹寿・務成・呂尚(太公望のこと)・老子を指し、三仙とは、迦毘羅・漚樓僧佉・勒沙婆の三人である。それぞれ「因果」についての独自の説を主張した。しかし結論していえば、それらは皆、究極且つ知性の「法」の初門も知らない偏見に執着したものであります。

どんな大学者であれ、有名人であれ、財力、権力の人であれ、自身の「生命の因果」に通じているとは限らない。にもかかわらず、心おごれるあまり、この根本の重大事について、真剣に、また謙虚に求めていかないとしたら、あまりにも愚かであり、残念なことではないでしょうか。

その錯誤は、永遠にわたる生命の軌道に、決定的とも言える狂いを生じさていくからだ。哲人は、ある邪見のモノに対して、「短い今世における大増上慢によって、未来永劫に迷い苦しむ因を植えつけてはならない」と大慈悲をもって語られており、よくよく心に刻むべきことだと思われませんか。

至言集中にある「立正安国」には、厳しき『因果の理法』について述べた箇所が詳細に綴られています。即ち、「音には必ず響きが伴い、身には必ず影がそう。また夜に字を書いて、明かりが消えても、字は目に見えないけれどもきちんと残っている。そのように、三界の果報も、必ず時とともに、いつか、自分のつくった因の報いとして、表にあらわれてくる」と。…。

なるほど、甚深で且つ冷静な眼は健在のようだ。将来を嘱望されてやまない彼。世界を駆けめぐる日々、あの地彼の地でも、価値ある出逢いを築きながら、師との誓いのもと雄々しい姿が目に浮かぶ。ありがとう!

この「因果の理法」は、本来我々の「肉眼」では見えないもの。より鋭き「天眼」でも、二乗の『慧眼』でも、なかなか分からない。その一分を知るのみである。

世の中には、一見にすると、「なぜ、こんなことが起きるのか?!」と感じるような、不可解な出来事があまりにも多い。それは、世間的、皮相的なものの見方では、人生の幸・不幸を決定する深き『因果の理法』を見据えることができないからである。

いわば、全て「幻覚」を見ているようなものなのである。結局、「法眼」、「仏眼」によって初めて、真実の実相、あらゆる事象の意味が分かってくるのだから。

今日は、彼の手紙を通し、はからずも胸中に深く刻印されている思いを記しては、ある種後世の歴史になることをここに断言しておきたい。

っま楽しみにされてて下さい。(キッパリとね(^_^)v)

PS、
折り紙議員党について連日報道されている。還著於本人の方程式をもってして、狂言メールを手にし矢を放った行為は、そのままブーメランの如く、そのものの因で自らが退場を余儀なくされることは、なんらおかしなことでもなく当然のことなのだが。来月に入って、大きく動き始まれば。どんな考えで居られるかは、彼の親子しか分からないのだろう。出来レースとは良く言ったものだ。

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